すごろく的
亀田鵬斎と仲間たち
意外にたくさん史実の人物が出てきて把握が大変な「酔先生のふで」。
すごろく的な亀田鵬斎相関図を作成してみました!
*亀田 鵬斎(かめだ ほうさい)
宝暦2年9月15日(1752年10月21日)~文政9年3月9日(1826年4月15日)
江戸時代の化政文化期の書家、儒学者、文人。
その書は現代欧米収集家から「フライング・ダンス」と形容されるが、空中に飛翔し飛び回るような独特な書法で知られる。良寛により大きく影響を受けた。享年75。今戸称福寺に葬られる。
*酒井抱一(さかい ほういつ)
宝暦11年7月1日(1761年8月1日)~文政11年11月29日(1829年1月4日)
江戸時代後期の絵師、俳人。 権大僧都(ごんのだいそうず)。本名は忠因(ただなお)
亀田鵬斎、谷文晁とは「下谷の三幅対」と評され、享楽に耽り遊びに興じた。
本編では鵬斎大好き人間として描かれているが、決してソッチ系ではない。
*谷文晁(たに ぶんちょう)
宝暦13年9月9日(1763年10月15日)~天保11年12月14日(1841年1月6日)
江戸時代後期の日本の画家。江戸下谷根岸生まれ。
松平定信に認められ、定信が隠居するまで定信に仕えた。
おおざっぱな性格であり、弟子などに求められると自分の作品でなくとも落款を認めた。
また自作に落款を押し文晁作品だと偽って売る弟子が相当数居た
。購入した者から苦情を受けても「自分の落款があるから本物でしょう」と、意に介さなかったという。
*依田竹谷(よだ ちっこく)
1790~1843年
江戸時代後期の画家。
寛政2年生まれ。江戸の人。谷文晁(ぶんちょう)にまなび、山水・人物・花鳥画を得意とした。
なんらかの理由で文晁門を破門される。
竹谷は儒者・亀田鵬斎に眼を掛けられており、連れ立って北陸を遊歴したとき、
各地で竹谷を谷文晁だと偽って潤筆料を荒稼ぎしたという。
お人好しの鵬斎先生ですから、もしかしたら本当に人助けをしたかもしれませんね。
*佐慧(さえ)
鵬斎の妻。鵬斎との間に数人の子を生んだが皆早くに亡くしてしまい、綾瀬のみ生存する。
劇中で背負っている赤子は桑。
*綾瀬(りょうらい)
安永7年7月10日(1778年8月2日) - 嘉永6年4月14日(1853年5月21日))
儒学者・亀田鵬斎の一子として江戸に生まれる。学問を父に承け、学塾・学経堂を設けて子弟を教えた。父・鵬斎が豪快な人柄であったのに対し、綾瀬は温厚篤実の君子として知られ、学問・文章ともに優れ、書は草体に巧みであった。
*桑(くわ)
鵬斎の娘。史実では早くに亡くなったらしい。
今回春華さんは三味線の生演奏に挑戦。
最終日は自前の三味線で臨んだのだとか。
*伊登(いと)
綾瀬の妻。うなぎ屋の娘。
普段はおとなしいがキレると誰よりも怖い。
*縫(ぬい)
綾瀬の娘、鵬斎の孫。
綾瀬の門下生だった亀田鶯谷(かめだおうこく)と結婚する。
*北条 霞亭(ほうじょう かてい)
安永9年9月5 日(1780年10月2日)~ 文政6年8月17日(1823 年9月21日)
江戸時代の漢学者。
鼻梁が高く眼光の鋭い面貌で、狷介で頑固一徹な人となりであったという。
・・・皆さんの眼には八須賀さんはどう映ったでしょうか?
*北尾親子(きたお おやこ)
本当にこういう親子が存在したかは定かではないが、江戸の古地図から、実在した亀田家の隣人。
夫人役の七海さんは、娘・はな役の本井さんの“お母さん役”が最後までご納得いっていないご様子でした。
*曲亭馬琴(きょくてい ばきん)
明和4年6月9 日(1767年7月4日)~嘉永元年11月6日(1848 年12月1日)
江戸時代後期の読本作者。
代表作は『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』。
ほとんど原稿料のみで生計を営むことのできた日本で最初の著述家。
*お久・長兵衛・お兼
鵬斎が旅の途中に立ち寄った宿屋の一家。
吉原に売られそうになる宿屋の娘を、鵬斎が身銭を切ることによって救われる。
この話は逸話としては実際に存在する。
*良寛(りょうかん)
宝暦8年10月2日(1758年11 月2日)~天保2年1月6日(1831年2月18日)
江戸時代後期の曹洞宗の僧侶、歌人、漢詩 人、書家。俗名、山本栄蔵または文孝。
落語の柳家さん生師匠が好演されました。
いつも着物で過ごされているからか、僧侶姿が本当に自然でした!
*粧太夫
文化年間(1804年~1817年)、遊里新吉原の半松楼に抱えられていた遊女。
書を中井敬義に学び、和歌もたしなむ教養のある女性で、江戸時代の代表的な文人、亀田鵬斎から蕋雲(ずいうん)の号を贈られたほど。
演出からは役作りに関して「檀蜜で!」と指定されていた。
*吉原遊郭のの花魁(香川・一もと・白玉・大淀)
鵬斎の還暦の宴に駆けつけた(抱一の自腹で)花魁たち。
実は全員実在の人物。
史実でも、粧も含め抱一のひいきであった。
いずれも書、茶、和歌に秀でた才色兼備の美女だったという。
もちろん身請けした香川も絵に長けていたので、抱一さんの好みは「知的な女性」のようです。
フライングゲットの際に履いていた白のスカートは一から手作り。
無駄にこだわってしまったため、色々な人を巻き込んだという。(花岡談)
*駐春亭宇左衛門(しゅうしゅんてい うざえもん)
江戸時代後期の遊女屋,料理店の主人。
伯母の家をついで江戸深川新地に茶屋をひらき,のち新吉原に遊女屋をひらく。
下谷竜泉寺町にもとめた別荘地から清水がでたため、田川屋という風呂付きの料理店をはじめた。
どういう流れか不明だが、急に役作りがオカマになり、殺陣のシーンでは着物をミニにして出演していた。
*八百屋善四郎(やおや ぜんしろう)
1768~1839年
江戸浅草山谷(さんや)で八百屋兼仕出屋をいとなんだ八百善(やおぜん) の4代目。
文政の始め頃には馬鹿げたほど高価な料理屋として大評判となる。
例えばお茶漬が一両二分(約10万円)もしたという。
八百膳さん、やっぱりいつもぼったくり料金だったんですね。
*佐原鞠塢(さはら きくう)
仙台出身の骨董商。向島百花園を開園する。
百花園に360本もの梅の木を植えたことから当時亀戸(現・江東区)に あった「梅屋敷」に倣って「新梅屋敷」とも、 「花屋敷」とも呼ばれていたが、
1809年(文化6 年)頃より「百花園」と呼ばれるようになった。
江戸時代には文人墨客のサロンとして利用され、 著名な利用者には「百花園」の命名者である絵師酒井抱一や門の額を書いた狂歌師大田南畝らがいた。
<有名人>
*松平定信(まつだいら さだのぶ)
宝暦8年(1758年)12月27日、御三卿田安徳川家の初代当主・徳川宗武の七男。
祖父・吉宗の享保の改革を手本に寛政の改革を行い、幕政再建を目指した。
この改革が鵬斎を苦しめることになる。
*大田南畝(おおた なんぽ)
寛延2年3月3日(1749年4月19日)~文政6年4月6日(1823年5月16日)
天明期を代表する文人・狂歌師であり、御家人。蜀山人。
劇中では「…ま、いっか!」が口癖。
*銭屋五兵衛(ぜにや ごへえ)
安永2年11月25日(1774年1月7日)~嘉永5年11月21日(1852年12月31日)
江戸時代後期の加賀の商人、海運業者。姓名の略から「銭五」とも呼ばれる。
出雲崎にて鵬斎と良寛和尚が出会った後、3年にわたる旅費の多くは銭五がスポンサーとして賄ったとされる。
劇中、出番はそこまで多くないものの、早着替えが大変だったのか毎回衣装はビショビショであった。
*7代目・市川團十郎(いちかわ だんじゅうろう)
(1791年~1859年)
歌舞伎役者の名跡。屋号は成田屋。五代目の孫で六代目の養子。
劇中の衣装は、2009年に公演された「シバラク!」そのままの衣装を流用。
すごろくは大変物持ちの良い劇団である。
*大石内蔵助(おおいし くらのすけ)
万治2年(1659年)~元禄16年2月4日(1703年3月20日)
諱(いみな)は良雄(よしお・よしたか)。
播磨国赤穂藩の筆頭家老。元禄赤穂事件で名を上げ、これを題材とした人形浄瑠璃・歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』で有名になった。
鵬斎が高輪・泉岳寺に赤穂浪士を弔う石碑を建てた事が有名な逸話としてある為、劇中に登場した人物。
*亀屋文宝(かめや ぶんぽう)
1768~1829年
江戸時代中期-後期の狂歌師。 大田南畝に書と狂歌をまなぶ。
太田南畝公認の贋作者。
通称は亀屋久右衛門。別号に食山人、散木、蜀山人(2代)など。
ここだけの話、稽古中の渡部くんは、出番の5~10分くらい前のスタンバイ中から緊張の顔を作っており、
毎回それを目撃された人に指をさされていた。